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ナショナリズムのあり方

「ナショナリズムは不健全なものだ。個人のアイデンティティーを国家に代行してもらおうという感情でしょ?」
これは、有事法制をめぐる議論の中での、とある有識者の発言だ。
今日、私はTVでサッカーを見ていたのだが、ふとこの発言とサッカーが重なってしまった。
折りしも日本は空前のワールドカップブームである。
日本が世界の舞台で、初めて相手チームに勝利した歴史的瞬間を日本中の過半数の人間が見ていたであろう。日本は開催国でもあり、ホームで悲願を果したという感動もひとしおだろう。
普段サッカーを見ない私も、多分にもれずTV観戦である。
クールな司令塔中田の統率で、終始日本ペースの試合展開。何度か危ない場面もあったが、相手のチャンスを潰しまくった宮元の奮闘も、稲本がロシアゴールを奪った瞬間も、ゴン中山が投入され、一点を死守するまでを固唾を飲んで見守っていた。試合終了のホイッスルと共に選手たちは抱き合って勝利を喜んだ。横浜国際総合競技場につめかけたサポーターたちも大騒ぎだ。
だが、ここでふとした疑問が頭をよぎる。
日本が勝つことはうれしい。ではなぜ嬉しいのか?
それは、我々が日本人であり、勝利したチームが日本の選抜チームだからである。
日本の旗を掲げて、彼らは世界の強豪と対等以上に戦った。
それは何のため?
もちろん、チームのため、日本のためということも出来るだろう。
現に選手たちは、日本の代表としてあのフィールドに立ち、期待と責任を一身に背負っている。その自負も相当なものであろう。
でも、考えてみれば国家のために闘うというのも変な話だ。
彼らは、仮に国家が滅びたらサッカーをやめるだろうか?
答えはNOのはずだ。彼らはサッカーが好きだから、プロになった。
あの場所に立てる人間はごくわずかである。少数のエリート中のエリートだ。
彼らがサッカーをやるのは、つきつめて考えれば自己実現のためであり、
彼らは日本という国がなくなっても、サッカーができるならば敵国にくみしてすらプレイするはずだ。本当にサッカーを愛してるならそうするはずなのだ。

前述の某氏は「自分のアイデンティティーを、外部の社会システムに求めること自体が間違いです」と語った。もちろんこれは有事法制の立法についての危惧を語ったものなのだが、奇妙にワールドカップの話にも符合するではないか。

「サポーターは12番目の選手だ」という言葉がある。
今日のTV中継の最中も、試合終了後のスポーツニュースでも、この言葉が幾度となく引用され、興奮気味に語られた。
見ている側としては、あの歴史的な瞬間に立ち会った感動を、少しでも選手とわかちあいたい。
サッカーをここまで振興してきたのは、ファンの力もあったのだと、力説したいところなのだろう。だが、またあの疑問が頭をもたげてくる。

勝ったのは日本チームにちがいないが、あの素晴らしいプレイを生み出したのは、サポーターではなく選手たち、そして監督だ。たとえ、観客を隔離して無音のフィールドでやったとしても選手たちは全力を尽くすだろう。実のところ観客は消費者、スポンサーとして以外にサッカーに貢献することはできないのである。「12番目の選手」という言葉は、我々観客が生み出したファンタジーなのかもしれない。私たちは、つかのまかれらに夢を預けることで、日ごろの鬱憤を代行して晴らしてもらっているに過ぎないのか?
自分の夢を語らずに、サッカーがこの世の全てであるかのように熱っぽく語る人を見ると、なんだかおかしな気持ちにもなってくる。

自分を基本に語るなら国防も同じ論点で語るべきだ。
有事法制は、戦争を放棄してきたわが国が直面している大事な転換点である。
ナショナリズムの暴走した結果を我々日本人は嫌というほど体験してきた。
熱狂的なナショナリズムはときとして、いともかんたんに全体主義に変わる。
昔、自ゴールに自殺点を入れた選手が、その国民に殺されてしまったことがあった。これが全体主義の凶暴さであり、ナショナリズムの行き着く先であるのかもしれない。

有事法制の問題点は、国土を越えた場所に軍を派遣する口実をつくってしまうという一点に尽きる。
自国を守るための犠牲を金という形で支払ってきたわが国は、国土を守るシステムすら満足に確立していない。いざ有事が勃発したときに、高速道路を自衛隊の車両が走れないなどという呑気な国は日本だけだ。
このような馬鹿らしい制度はもちろん法整備の必要が議論されるべきだろう。だが一方で、日本はこの呑気さを堅持しなければならないのではないか。
それが、これまで日本が築いてきた、もう一つの国防のありかたなのだから。

私個人の考えとしては、私的なナショナリズムは必要だと思っている。国というくくりを個人の立ち位置にして何も悪いことはない。でもそれは、自分個人の誇りとしてあるべきで、他人のためにあるべきではない。
個人のアイデンティティーと、ナショナリズムは本来同居可能なものではないだろうか。

そういう意味で、私を越えたナショナリズムで国防を語ることは危険だ。
個と公で言えば、公は国家。個は私だ。国なくして私はありえないという意見もあるだろう。だが、私なくしても国はありえないのだ。個が集まってこその公であり。個のために国防が語られるのなら、なにも問題はない。公としての戦いは、たとえ国防の話であっても、拡大解釈がいくらでも出来るからである。

ナショナリズムにひそむ危うい側面という観点から、私なりに国と個人の関わりというものを考えてみたのだが、
現実を見回すと、世にはかつてないほどに個がはびこり、公がおろそかになったわが国で、ナショナリズムが求められる空気があるのも理解できる。
枠組みを決めてやらねば社会に貢献する意味を見つけられないものにはナショナリズムというシナリオは、うまく機能するだろう。
ワールドカップは、開催国に莫大な収益をもたらし、死にかけた経済の起爆剤になる期待も高い。
ナショナリズムを、ただ悪玉呼ばわりするのではなく、その先にあることを考えてやってもよいではないか。

これで日本の勝ち点は4で、後のチュニジア戦を一点差に押さえれば決勝トーナメントにいけるそうだ。
ナショナリズムの是非は置いておいて、ひとつだけ確実にいえるのは、
いま、それをいうのは無粋だということである。

2002.06.09

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